「食後すぐの歯磨きは、かえって歯を傷めるから、歯磨きは食後30分後にするのがよい」という意見をみかけます。例えば、日経新聞は2012年2月に”食後すぐの歯磨きはNG 虫歯予防の新常識””という記事を配信しました。また、2018年9月のTBSの番組で、”「食べたらすぐに歯磨き」は間違っている””ととりあげました。
日経新聞の記事は、主に酸蝕症に焦点を当てた記事です。酸蝕症は、図に示すような身近な飲食物がpH5.5以下の酸性であるために、飲みすぎたり食べすぎると、歯の表面を覆うエナメル質が溶ける疾患です。
むし歯で歯を溶かす酸は、口の中の細菌が食品の糖やデンプンから作りますから、むし歯と酸蝕症とは、細菌の関与の有無が異なります。その上、酸蝕症歯の表面から溶かしますが、むし歯は、表層下脱灰といって、歯の表層の内側から溶け始めます。そこで、表面から溶ける酸蝕症の場合に「タイミングを間違えた毎日の歯磨きが歯のすり減りを加速させる」と注意を促しているようです。この記事の筆者は、2010年の日本歯科医師会雑誌に次のように寄稿しています。「酸性の食品を飲食した直後は、歯の表面のエナメル質が柔らかくなっている可能性がある。このような場合には、唾液の力による 回復が十分に望める30分後をめどに歯磨きをする。特に、酸蝕歯患者では注意を要する」 このように、食後30分後の歯磨きは、特に酸蝕症の人を対象にしてます。
唾液には緩衝能という酸を中和する作用があります。例えば、オレンジジュースを飲むと、オレンジジュースの混じった唾液は酸性になって、この酸性唾液で歯が溶けることになります。しかし、実際には、オレンジジュースを飲むことに刺激されて唾液がたくさん出て、酸を薄めて洗い流すうえに、唾液の緩衝能が働いて中性に戻ります。この作用が十分に働いていると酸蝕症にはならないのですが、健康のために毎日黒酢を飲む習慣があったり、3か月間グレープフルーツを1日2個食べたり、スポーツドリンクやエナジードリンクを毎日多量に飲んだりして、酸性のものを口にする頻度が多くなりすぎると、唾液の作用が追いつかず酸蝕症が起こります。最近は、欧米型の食生活の定着に加え、健康志向から酸性度の高い飲食物を好んで摂る方々が増えているので、酸蝕症が増えていて、その罹患率は、全世代通じておおよそ4人に1人です。ただ、酸蝕症を自覚している人は多くはないです。なぜなら、酸蝕症の初期は、歯の表面に滑らかな光沢ができ、時には歯が丸みを帯びた外観になるだけで、自覚症状がないからです。ですから、酸蝕症が心配な方は歯科医に診てもらうことをお勧めします。酸蝕症と診断されたら、まず、酸性食品を制限してください。次に、酸で柔らかくなっている歯の表面を強い力で歯磨きしないように、ブラッシングについてアドバイスを受けてください。言われているような「歯磨きを食後30分以後にする」ことが有効かどうかは、いまのところ誰も検証しておらず、推奨すべきかどうかも明らかになってません。
このように、唾液には酸を洗い流して中和する都合のよい働きがありますが、この働きに期待しすぎてはいけません。その理由は、
唾液は、お口のなか全体にまんべんなくは流れません。
もっともよく流れるのは、下の前歯の裏側で、逆に上の前歯の表側は唾液があまり流れません。この二つの部分には約4倍の差があります。ですから、酸性のものを飲食しても、上の前歯の表側はいつまでも残るので、注意が必要です。逆に、上の大臼歯の頬っぺた側は、耳下腺からの唾液がでる所で、食事をするとたくさんの唾液がでてきます。このように、唾液が到達しやすい部分としにくい部分がありますから、口のなかどこでも等しく酸を薄めて中和する唾液の恩恵をうけるわけでありません。
もともと唾液の分泌が少ない人とか、緩衝能が十分働かない人もいます。さらに、同一人物でも、唾液のでる量、緩衝能の強さが時により変動します。
たとえば、ストレスがあったり、精神的に緊張すると、唾液の量が少なくなることがあります。そして、緩衝能もいつも一定の能力が保たれているわけでありません。
酸性食品を極端にたくさん飲食する習慣がある人では、唾液の働きを上回る酸が口にはいることになります。また、睡眠中は唾液が止まるので、寝る前に飲食する習慣があれば、唾液は働きません。
以上、唾液は誰にも、どの歯にも、何時でも、歯を護るように働くわけでないことを忘れないでください。
TBSの番組のHPでつぎのように解説されています。「今の常識では、食後すぐに歯磨きをするのは良くないとされている。食べてすぐの口の中は酸性状態になっていて、虫歯が細かくできる。しかし、しばらくすると唾液が酸性状態を中和してそれ以上虫歯になるのを防ぎ、さらに唾液に含まれるカルシウムなどが細かくできた穴を埋める働きをする。そのため、食後すぐに歯磨きをしてしまうと、唾液が虫歯を修復する働きを妨害してしまう。酸性状態が中和されて元の状態に戻る食後30分以上経ってから歯磨きをするのが良い」。
このなかの「食べてすぐの口の中は酸性状態になっていて、虫歯が細かくできる」は、むし歯の初期段階の脱灰のことです。また、「しばらくすると唾液が酸性状態を中和してそれ以上虫歯になるのを防ぎ」とあるのは、前述の唾液の緩衝能のことでしょうが、このあとの、「唾液に含まれるカルシウムやリン酸が細かくできた穴を埋める働き」のことを、再石灰化と呼んでいます。
従来から歯科界で広く推奨されている再石灰化を促進する方法は、次の二つです。
ブラッシングして歯垢や食べかすを歯の表面からきれいに落として、唾液が充分に歯の表面に接触するようにする。
再石灰化を促進する作用の強い高濃度(1450ppm)のフッ素配合歯みがき剤を使用すれば、フッ素がミネラルを歯に運び届けてくれます。
つまり、唾液の再石灰化を期待するならば、食後30分待つのではなく、食後早い時期にフッ素配合歯磨き剤を使って使ってブラッシングすることが必要です。
この問題について、歯科の専門学会は次のような見解を公表しています。
日本小児歯科学会は、「食後の歯みがきについて」と題して「通常の食事の時は早めに歯みがきをして歯垢とその中の細菌を取り除いて脱灰を防ぐことの方が重要です」と表明してます。
また、日本歯科保存学会は、「食後30分間は歯みがきを避けることについての見解」と題して、「食後の歯磨きについては、歯のう蝕(ムシ歯)予防の見地から、これまで一般的に推奨されてきた通り、食後の早い時間内に行なうことをお薦めします。ただし、酸性の強い飲料などの飲食物を摂った場合には、歯の酸蝕(酸によって歯の表面が溶けること)に留意して歯みがきすることをお薦めします(なお、「酸性飲食物を摂取後30 分間は歯磨きを避けるべき」ということの確認はできていません)。」と発表しております。
さらに、日本歯科医師会は、「歯磨きのタイミングは、食後30分以内が良いのか。(再石灰化の効果との関係性があれば)」という質問について、「再石灰化効果は、唾液とフッ化物によって起こります。唾液だけでも一定程度、初期むし歯が再石灰化します。フッ化物配合の歯磨剤を使用すると、約85%の初期むし歯が再石灰化して健全な歯になります。そのため、食後30分以内であろうと、いつであろうと、フッ化物配合の歯磨剤で歯磨きをすることが大切です。」と回答しています。
以上、「食後の歯磨きは30分以後にしたほうが良い」という説について、私見を述べて、専門家団体の見解をお知らせしました。この説が世間をにぎわすようになって、10年以上が経過しました。最近でも、時折、マスコミやインターネット上で話題にのぼりますが、この歯磨き法は、酸蝕症の情報をむし歯にあてはめたもので、さらに、その背景に唾液の歯を護る作用の過信があるので、万人に推奨できるものではありません。皆様は、巷の情報に惑わされないで、食後の早い時期にフッ素配合歯磨きを使って歯磨きをするように心がけてください。
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